「文字の文化史 (講談社学術文庫)」販売店・購入・ショップ情報。藤枝 晃講談社

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文字の文化史 (講談社学術文庫)

藤枝 晃講談社

講談社
博識というか碩学というか,広い知識が,ただの「物知り」に終わることなく,
深い思索に支えられて初めて出来上がったであろう,壮大な構築物になっている。

篆書が廃れて隷書が広まったわけ,
楷書が隷書にとって代わったわけ,
そうした「なぜ」が,説得力のある想像によって非常に興味深く描かれていく。

この著者のような「学者」がたくさんいてくれると,世の中楽しいな。


 

歴史の学び方について―「近現代史論争」の混迷を超える (Xシリーズ)

関 曠野窓社

窓社
 在野の思想史家関曠野は、『プラトンと資本主義』(1982)そして、『ハムレットの方へ』(1983)において、1980年代の日本の読書界に、静かに深い衝撃を与えた。その波紋が未だに続いていることは、この二書が90年代に入り、新たな後書を付し、改訂新版として世に問われ現在に至っていることが雄弁に物語っている。ただ、その後書が示唆するものは、著者関曠野の決定的な転換だ。それも、変節や転向ではなく、自己の思想に忠実に、学び直し成長したことによるのだ。
 この小さな本は、現在の関曠野の成長した思想を率直かつ大胆に述べる。その副題から、「つくる会」筋を腐らせるための時論の書と即断してはならない。それどころか、現在の関曠野の思想的到達点が、ここに凝縮されていると言ってよいと思う。「人間とは何か」、「なぜ人間は歴史を持つのか」。この問題の、著者による設定理由と回答が、哲学的晦渋さとは無縁の平明簡潔な言葉で収められているからである。
 人間を自然から歴史へと追放する根源的ディレンマ。それ故の根源的な人間の自由。その自由のため、制限された存在である人間は、善をなし、同時に悪をなす。事実、歴史は人間の過ちで満ちている。しかし、そこにこそ、過ちを認め、学び直し、成長する、自由な人間の可能性と未来がある。この人間存在に関する思索を、ロック、カルヴィニズム、ユダヤ教、と政治思想史的淵源をたどりながら記述しているのが、理論的心臓部である第II部である。続く第III部では現代日本人に、明治以来しくじり続けている政治的権威の創出を、歴史を学び直すことと市民改憲を通じて民族的課題として訴えている。
 かつて著者は、「革命とは他者を変えることではなく、自らが変わることである。」と喝破した。私を含めた読者が、この書における著者自らの学び直しとしての革命の実践を、一つの範例と認めるかどうかは、私たちがお互いを善意ある隣人として信じられるかどうかにかかっていると思う。

 

歴史学の方法 (講談社学術文庫)

講談社

講談社
ウェーバーの中ではあまり有名ではない『歴史学の方法』ですが、
比較的ウェーバーの中では入りやすいものではないかと思います。
しかも、ウェーバーの考え方が良く分かります。
これを読んでから、『プロテスタンティズムと資本主義の精神』を読むとGoodではないかと思います。

 

ジェンダーと歴史学 (平凡社ライブラリー)

ジョーン・W. スコット平凡社

平凡社
¥ 1,995
通常24時間以内に発送

 

物語の哲学 (岩波現代文庫)

野家 啓一岩波書店

岩波書店
¥ 1,365
通常24時間以内に発送
著者の専門は科学哲学を中心に分析哲学や大陸系の現象学など広範囲である。哲学においても物語り行為は重要な役割を担う。かのカントの純理にしろ、フッセルのヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学にしろ、ハイデガーの名著存在と時間にしろ、著者が自ら訳し親炙したローティの哲学と自然の鏡にしろ、哲学書の論理的展開を支える強力な物語的構成力なくしては古典的な著作たりえない。たとえばアインシュタインの特殊相対性理論のシンプルな公式表現ですら、物語的ですらある。
 そこで著者第1章を「人間は物語る動物」である、と始める。本書は単著で刊行されたさいには柳田國男と歴史の発見という副題が付けられていたが、著者の意図は物語論一般にあり、現代文庫版では削除されている。つまり、原初的な口承文学を含めて歴史叙述との類似性などを精緻に分析、理論化することが目的である。したがって、所謂文学理論的な著作とは異なり、哲学的あるいはメタ理論的な概念を敷衍して議論を展開している。理論的な流れの中で注目に値するのは、リチャード・ローティが集大成した20世紀前半の哲学革命言語論的転回が、実は歴史学においても1990年代に波及したという指摘を踏まえて、前版を補正してなったのが本版だという。物語理論は、なにも文学が独占する領域ではない。哲学的視点による知の総合理論としての物語論と読むべき著作の誕生である。

 

身体の中世 (ちくま学芸文庫)

池上 俊一筑摩書房

筑摩書房

 

ギボン自伝 (ちくま学芸文庫)

エドワード ギボン筑摩書房

筑摩書房

 

「新しい歴史学」とは何か―アナール派から学ぶもの (講談社学術文庫)

福井 憲彦講談社

講談社

 

名前の禁忌(タブー)習俗 (講談社学術文庫)

豊田 国夫講談社

講談社

 

歴史とは何か (岩波新書)

E.H. カー岩波書店

岩波書店
¥ 819
通常24時間以内に発送
 E.H.カーの著作で、日本でとても有名な著作。自分も高校生の時に買って、何度も挑戦してはわかりにくくて放棄し、また読んでの繰り返しだった1冊。
 今改めて読み返してみると、歴史の持つ個人的効用、社会的効用がわかり始めたような気がする。「歴史は現在と過去の対話である」という言葉がここではとても印象的に使われているが、じゃあなぜそんな対話をする必要性があるのか。
 今の社会で広範に流布している風潮は「いまを生きよう」や、「二度とないこの瞬間を大事に生きていこう」といったものが有力に見えて、そこには歴史を学ぶ必要性・必然性は欠落しているし、歴史への意識はかえっていまを生きる上で邪魔な障害物でしかないように思わせる。じゃあなぜ、歴史を学ぶ必要があるのか。
 それは、いまを生きるときの「いま」は歴史的に構築されたもので、何らかの勢力が特定の意図の下で設計した結果として「いま」が「あるがまま」にあるという事実を、歴史は学ぶ者に教えてくれるからだ。この議論は本書の中に収録されている。そのことこそが歴史を学ぶべき最大の理由なのだと思う。毎日毎日、毎週毎週、毎年毎年「いまを生きる」ばかりでは、自分たちがいる位置について知ることは出来ないし、自分たちを取り囲んでいる諸々の制度の仕組みについても知ることが出来ない。「いまを生きる」精神を要求しているのは、例えば今の産業システムであり、それを前面に立って支えているマスメディア産業であり広告産業であり、そこでは物事のもつ歴史性を隠蔽し、また歴史自体を商品にすることによって人々を永遠に「いまを生きる」状態にとどめようとする傾向をもつ。そんな状態を食い止めるのが、現状の持つ問題性を明らかにする戦略としての歴史研究だ。

 そういう風に考えれば歴史研究は実はとても過激なインパクトを齎すことの出来る分野でもあり、普通に生きている人々にとっても「いまを生きる」際の基本的なリテラシーともなり得る。この著作は、そんな視点からの読解にも耐えうる、中身の濃い1冊です。

 
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龍樹 (講談社学術文庫) 中村 元 講談社 龍樹 (講談社学術文庫)
 仏教にははなはだ不案内の評者にもすこぶる分かりやすい空観論だった。他の著者による竜樹論は読んだことがないけれども、中村元氏の解説・解釈は懇切極めているし、竜樹の難解な詩句も多年の研鑚によるものだからこそであろう、文章も平易で竜樹思想を浮かび上がらせようとする氏の真摯な姿勢に促されてじっくり読み進めることのできる充実した入門案内書になっている。『中論』全訳、巻末に西洋神秘哲学との比較、インド仏教史、文献案内付き。
 中観派思想独特のタームやワーディングに初めは戸惑ったが、読んでいくうちに竜樹の考え方の面白さが滲むように分かってくる。西洋哲学との根本的な相違は認識論や存在論にあるのではなくて、倫理哲学、実践哲学がまずある。真理ではなくて実践や行いが初めに来る。人間が生きている苦への透徹した眼差しがある。そこから哲理をスタートさせる。したがって思考方法は実践や行いに向かうためにこそ使われる。そのためにいかに思考を機能させるかかがロジックの要になってくる。思考を軽やかにすること、すばやく動くこと、一瞬で全体を見渡すこと、無限の差異の同時性にとどまること。空観には縁起のもつ構造論的関係的思考があって、西洋哲学の鈍重な「実体=二元対立的」原理は一掃される。絶対的真理を構築し、彫琢するにはそうした実体的原理は有効だろうし、たしかに文明を進化させてきたのも事実だ。何より空観はそうした思考の重さからわれわれを解放するための実践的哲理なのだ。一切の実体的な思考を批判し、そのくびきから解き放ってくれる軽やかな思考の身振りにこそ真骨頂がある。たとえば宇宙の開闢、ビックバンの始まりはひょっとして永遠に始まっており、同時に永遠に終わっているものなのかもしれない、と考えられないだろうか? すると時間とは? 死とは? 想像を掻き立ててくれる。ではその思考はどこへわれわれを誘ってくれるのだろうか? 涅槃、ニルヴァーナの境地だと竜樹は言う。六道輪廻の苦しみからの解放という。しかし著者は両者は同じものだと述べる。(P298)いったん実体として思考されてしまうと涅槃の境地も空見となる。結局われわれ自身の生きている行いの中でいかに空観的に生きるかの心の持ち方に尽きよう。